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2009年04月 アーカイブ

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末っ子

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ドイツ、ザクセン王国のツヴィッカウに生まれる。5人兄弟の末っ子であった。
父は出版業者で、著作も行っていた。

シューマンはそのような環境の中で、早くから音楽や文学に親しみ、作曲や詩作を試み、豊かな才能を示した。

息子の音楽の才能を認めていた父は1826年に亡くなり、安定した生活を願う母の希望で法学を学ぶことになり、1828年にライプツィヒ大学に入学した。

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夢をあきらめない!

シューマンは音楽家への夢を捨てることができず、1830年に高名なピアノ教師、フリードリヒ・ヴィークのもとに弟子入りし、ピアノの練習に励んだ。

同年、シューマンの作品、『アベッグ変奏曲』が初めて出版された。
1831年には改めて正式に作曲も学び始め、ハインリッヒ・ドルンに師事した。

しかし、過度のピアノの練習により手を痛めたため、ピアノの演奏を諦めなくてはならなくなり、音楽評論家、作曲家として生計を立てる決意をした。

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8人の子供

1834年の夏には、エルネスティーネ・フォン・フリッケンとの恋愛事件があり、それは『謝肉祭』と『交響的練習曲』が生まれるきっかけとなった。

その後、ヴィークの娘の名ピアニスト、クララとの恋愛が進行し、2人は婚約した。
それはヴィークの激しい怒りを買い、シューマンとクララはつらい思いをせざるをえなかった。

そのような日々の中で『幻想小曲集』(作品12)、『幻想曲』、『クライスレリアーナ』などが作曲された。1839年、2人は遂に訴訟を起こし、翌年結婚が認められた。2人の間には8人の子供が生まれた。

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歌の年

ピアノ曲ばかりを作曲してきたシューマンだったが、1840年には歌曲の作曲に熱中し、1年ほどの間に『詩人の恋』、『リーダークライス』作品24と作品39、『女の愛と生涯』などを続々作曲した。
いわゆる「歌の年」と呼ばれる。

1841年は「交響曲の年」と呼ばれ、交響曲第1番『春』や交響曲第4番の初稿が書かれた。
このうち第1交響曲は3月31日にすでに親友となっていたフェリックス・メンデルスゾーンの指揮でライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団の演奏会で初演され、大成功をおさめた。

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年を追うごとに・・・

1842年には『ピアノ五重奏曲』などの室内楽曲が集中して書かれ、さらにその翌年にはオラトリオ『楽園とペリ』が書かれるなど、年を追うごとにシューマンの作品の幅は広いものとなっていった。

1844年、ドレスデンに移住。ピアノ協奏曲などの作曲に励んだが、この頃から徐々に精神の均衡が崩れる兆候が出てくるようになり、その危機を脱しようとバッハの研究に没頭、オルガンやピアノのためのフーガを書き、また、1845年から翌年にかけて、交響曲第2番を作曲した。

1848年には唯一のオペラ『ゲノフェーファ』が書かれた。

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『ヴァイオリン協奏曲』の誕生

1850年、デュッセルドルフの音楽監督に招かれて移住。
同地の明るい風光はシューマンに良い影響を与え、交響曲第3番『ライン』やチェロ協奏曲、多数の室内楽曲を作曲するとともに第4交響曲の改訂をおこなった。

大規模な声楽曲『ミサ曲 ハ短調』や『レクイエム』も手がけた。
しかし、1853年には余りに内向的なシューマンと楽員の間が不和になり、11月には指揮者を辞任することとなった。『ヴァイオリン協奏曲』はこの頃の作品である。